out of control  

  


   1

 うっすらと目を開くと、見慣れた天蓋と半端に閉められた遮光用のひらひらとした布が見えた。
 どうやら、またこの部屋で眠っちまったらしい。
 まだぼんやりとかすむ意識に欠伸をかみ殺しながら覚醒を促して、俺はまだ寝たいと訴える身体を寝台からなんとか引きずり起こした。
 えーと……まだ朝のうち、だよな? 俺が寝ているから一応気を遣ったんだろう。閉ざされたままのカーテンの隙間から入る光の様子を見て頭を掻く。
 寝台に倒れこむ寸前に面倒になって上着はその辺に投げちまったからな。裸の肩口を滑り落ちてきた髪を近くに置いてあった髪紐で結ぶと、右手に残るしびれるような痛みに俺はうんざりとため息をついて立ち上がった。
 夕食も適当で風呂にも入らず、あれほど身だしなみにうるさかった俺のこの有様を見たら、あのやたらに俺を庇いたがる年寄り――ニアルチはさぞ嘆くだろうさ。
 死を覚悟した後だ。だからなにがあろうとそんなもん今さら。そんな覚悟はとうにあったんだが、ね。

「それにしても、この状態はよろしくないなァ……」
「ネサラ様、お目覚めですか!?」

 あのガサツな男が椅子に掛けたらしい。床に投げたはずの上着を低い背もたれに見つけて羽織ると、俺の独り言が聞こえたんだろう。キルヴァス王時代から俺の側近を務めていたシーカーが飛び込んできた。

「ノックはどうした? 王の部屋だぞ。鴉の文官の礼儀作法はその程度かと言われたらどうするつもりだ」
「あ…も、申しわけございません。その…ネサラ様が心配でしたのでつい……」

 金具を留めながら低く叱ると、シーカーはうな垂れて小さく詫び、大げさなその言葉が嘘ではないとなによりも雄弁な鳶色の目を俺に向けた。
 まあ、実際のところはな。あのガサツでぞんざい……もとい、大らかな男がそんなことを気にするような性格ではないことぐらい、俺もコイツもわかっちゃいるんだがね。

「次からは気をつけろ。まったく、おまえはニアルチと同じで昔から大げさだな」
「それは、仕方がございません。ネサラ様は王だったのですから。……今でもその気持ちは変わりませんが」

 ばさり、とこの朝初めて出して広げた翼の具合を確かめる俺にいかにもなにか言いたげな様子のシーカーは、後ろから俺の上着の襟や裾を手早く整えてからまた半歩下がった。

「朝食の準備ができております。あの、湯浴みもできますが……」
「あぁ、じゃあ先に湯浴みにするか。さすがに疲れた」
「は、はい。そうですね。わかりました」

 差し出された水を飲み干すと、昨夜俺が風呂も使えなかったことを知っているんだろう。妙に遠慮がちな返事で頷くと、その後はなぜか涙ぐんだシーカーが慌てて顔を逸らして先に歩き出す。
 ……本当に大げさなヤツだ。確かに、忙しいのは認める。
 だが、これでも元王だからな。忙しいことには慣れているんだ。ああ、そりゃもう悲しいほどにね。
 けれど今の俺の状況は、いや、それよりも気分の方か。あの頃と比べて天と地ほどにも違うというのに。
 そう、それだけは言える。
 その昔、初代の王がベグニオンの元老院に騙されて「血の誓約」なるはた迷惑なものを結ばされたのは今から約百七十年前の話だ。それから代々元老院に良いように使われて、前王の頃からはベオクとラグズ間がますますきな臭くなってだな、俺が望まぬ王位を継いだ時には、さて。キルヴァスが生き残るかよりもなによりも、キルヴァスがラグズ全てを敵に回さなければならなくなる決定的状況をどうやって回避すればいいのかって展開になっていた。
 まあ…足掻いたんだがね。俺としては、一応。我ながらみっともない努力であの手この手で足掻いてはみたものの、結局回避することはできず、最悪の事態になった。
 本当に悪夢だぜ。もちろん報復は免れない。かといってキルヴァスの民全てでその報復を受け入れるなんてできるわけない。
 だからできれば俺の首一つで、それが無理でも戦士たちの、俺といっしょにどうしても死ぬとうるさい連中の首だけでどうにか手を打ってもらうしかないと思ったんだが、獣牙の連中だけでなく鷹の連中も呆れるほどのお人好しだった。
 もちろんもろもろの恨みつらみ、反対意見はあったんだろうが、なぜか戦士たちはもちろん、俺の首まで繋がることになっちまった。
 それも、鷹、鷺、鴉の三鳥翼が一つになった新しい国の基盤を作り上げるという、大切な役目の一つを俺が担うことこそが償いだという条件で。
 ……大罪を犯した王に、己の民全ての命を、その生活を引き受けてくれた上、その未来を守る仕事まで与えるなんてな。驚いたよ。
 まあ、実年齢だけなら俺は王としちゃずいぶん若いからな。そんな俺が抱えていた事情にいたく同情したらしいガリアの獅子王がまず赦したことも大きかったらしい。
 それでも、俺自身は反対だったがね。
 あいつは確かに自分の民に信頼されてる。だが、この判断はその信頼を、なによりもこの新しい国の屋台骨を揺るがすことになるんじゃないのかと……。
 だが、そんな俺の不安には全く取り合っちゃもらえなかった。

『ネサラ、生きて償え。ただ死ぬだけが償いなんて、そんな楽な真似はさせねえ』

 すったもんだの末だ。金褐色の目は、少しだけ赤かった。長い沈黙の後で、なにも食えない、眠れない俺の両肩を掴んだあいつは、そう言った。
 ………王の決定に、逆らえるもんかね。そうなれば、てめぇなんかもういらないと言われるまで、働くしかない。
 乾いた笑いがこみ上げてしばらく肩を震わせてから、俺は牢でさえないこのセリノスの客間の床に膝をついて頭を垂れた。
 王に対する、絶対の服従の証だ。
 ああ、そうだよ。自分で腹をくくって、服従したんだが、ねェ……。

「ネサラ様、手ぬぐいはこちらに置いておきますので」
「ああ。おまえももうべつに俺についてなくていいから、さっさと仕事に戻れ」
「いえ、これが私の仕事です!」

 鷹の文官はどうも頼りにならないからな。できればさっさと戻って欲しいが、頑なな目をしたシーカーがあっさり言うことを聞くとは思えない。
 軽く肩を竦めて広い浴室に入ると、俺はいつものようにシーカーはもちろん、鷹も鴉も区別なく下働きの連中を追い出してさっさと暖かい風呂に浸かった。
 ベグニオンとクリミアの境辺りで取れる白い石作りの美しい浴室は、本来なら王専用のものだ。当然、鳥翼王と、この王宮に泊まる時なら白鷺王だけが使えるはずのもの。
 それなのになぜしがない外交官である俺まで入れるのかと言うと、当の鳥翼王が言ったからだ。
 肩書きが変わろうとおまえは鴉王だ。俺がそう認めてるんだから、堂々と入りやがれ……なんて、ね。まあ俺は元々が風呂好きだから、それを知ってるあいつなりの気遣いだったんだろうが、これもまた一部の連中の反感を買ってるんじゃないかと考えると、正直ため息が出る。
 ただでさえほとんどを王の部屋で過ごしているんだ。この待遇はどうなんだとは思う。

「……ふう」

 この時間は鎧戸を下ろしていないからな。湯船の向こう、壁一面の窓に広がる鮮やかなセリノスの緑を眺めていると、またしてもシーカーの声が聞こえた。

「ネサラ様? のぼせてらっしゃらないですか?」
「あぁ、なんでもない。いいから待ってろ」
「はい! ……あの、お辛いようでしたらいつでも声をおかけください。戸口に控えておりますので」

 おいおい、まだいやがるのか。
 本当に最近のこいつは心配しすぎだ。ニアルチも大概だが、あいつを書類仕事の最前線に回して正解だったとつくづく思う。
 シーカーも回しておきたいところだったが、それにはニアルチが反対しやがったからな。
 まったく、一週間やそこら寝不足が続いたところで倒れるほどやわな身体をしているわけじゃなし。
 ………いや、あったか。確かに倒れたことはあったが、あの頃はまだ誓約に縛られていて特別だったんだ。それなのにあいつらだけがいつまでも心配し過ぎるのは、体力自慢である鷹の連中の手前、少し控えさせた方が良い気がする。
 仮にも元は鴉の王だった俺がひ弱だなんて噂が立ったら、ひいては鴉全体がひ弱だと思われるからな。
 こうしちゃいられない。とっとと仕事にかかろう。
 すぐに上がって身体を拭き始めたところでいかにも中に入りたそうなシーカーをもう一度いさめて、俺は髪を拭くのもそこそこに浴室を出た。

「それで、食事は? 俺の執務室の方か?」
「いえ、鷹王さ…鳥翼王様の執務室の方です。王のご希望でしたので」
「またか!? ……まったく、あいつはなにを考えてるんだ」
「私も何度かご意見申し上げましたが、ネサラ様がちゃんと召し上がるか心配だからと仰せで」
「雛じゃあるまいし、訳がわからん」
「はい。お止めできず、まことに申し訳なく……」
「別におまえのせいじゃないだろう。わかった。もう下がれ」
「いえ! せめて王の執務室まではお送りいたします」

 もう慣れた執務室への広い廊下を歩く俺の後ろから上着を直し、濡れたままの後ろ髪の雫を手ぬぐいで押さえながら頑固に答えるシーカーに少し笑うと、俺はそれ以上なにも言わずにやたら立派な両開きの扉の前に立った。
 シーカーのノックに、「入れ」と尊大な声が返る。先に黄金の取っ手を握ったのはシーカーだ。もう俺は王じゃないのに、その事実に対してこんなところでいつまでも無言の抵抗をするシーカーがおかしくて、俺はつい緩みそうになる口元を引き締めて姿勢を正した。

「よう。もう起きたのかよ?」
「はい。おはようございます。まずは遅参つかまつりましたこと深くお詫び申し上げます。鳥翼王様におかれましては本日もご機嫌麗しく――」
「ああ、その尻が痒くなるような口上もご大層なお辞儀もいらねえから早く入れ」

 俺も鳥翼の中では背は高い方だが、その俺が見上げるほどの長身と、鳥翼族にあるまじきと言いたいほどの逞しい体躯。ふてぶてしくもよく見れば造作は整っている、派手な十字傷の走った男っぽい顔のこの男が鳥翼王、そしてついこの間までフェニキスの鷹王だったティバーンだ。

「……はい」

 昨夜は俺と同じくらい就寝は遅かったはずなのに、その顔にも身体にも寝不足のだるさは微塵も感じられない。
 まったく、この男はどれだけ体力が余ってるのかと呆れたくなるな。

「………それでは、ネサラ様。なにかございましたらお声をおかけくださいませ」

 うんざりしながら大きな手に招かれるまま執務机に横付けされた食卓を兼ねたワゴンに寄ったところで、ようやくシーカーが一礼して執務室を出た。
 俺じゃなくてティバーンに頭を下げろってあれほど言ってるのに、しょうがないな。

「おい、なにを笑ってるんだ?」
「いや。つくづく、おまえはいつまでもあいつらの王なんだと思ってな」
「それは……教育が行き届いてなくて申しわけないと思っている」

 ティバーンに手を引かれるまま当然のようにそば用意された椅子に腰を下ろすと、ティバーンは楽しそうに頬杖をついてくつくつと笑った。

「気にするな。多少うるせぇ連中はいるだろうが、俺は気にならん」
「………」

 俺は気になる。
 口にはしないが俺の顔で考えてることがわかったんだろう。ティバーンはのろのろとナイフとフォークを握った俺を眺めたまま笑って、卵料理の脇に添えられたウインナを一本つまんで大きな口に放り込んだ。

「行儀が悪い」
「誰も見てねえよ」
「そういう問題じゃない。こういうのは癖になるから言ってるんだ」
「ベオクと会食する時はちゃんとするさ。……それより、なんだ。手が痛ぇのか?」
「誰かさんのおかげでね」

 鈍いナイフの動きでわかったらしく、ティバーンに言われて、俺は努めて冷たい声で答えて冷えた卵料理を口に運ぶ。
 常に食糧難で飢餓との戦いだったキルヴァスとは違い、フェニキスでは別段贅沢ではないんだろうが、それでも朝っぱらから卵料理と肉が同時に出るのは未だに慣れない。
 余分な食料はつい貯めておきたくなるのはもう俺たち鴉の性なのかも知れないな。

「おまえは書類仕事にゃ慣れてると思ったんだがなあ」
「そりゃ、あんたよりは慣れてるさ。でも、それにも限度ってものがある」
「そうなのか?」
「あのな、サインだけならまだしも、一から俺が書き起こした書類がどれだけあると思ってるんだ!?」

 籠に入ったパンをほお張りながら呑気に言われて苛々と言い返すと、ティバーンは少し考えて納得したのか、「そうかそうか」なんて笑って食べかけのパンの切れ端を俺の口元に突きつける。

「そら」
「なんだよ?」
「確かにここ二週間は酷かった。せめて食わせてやろうと思ってな。まだまだおまえに書いてもらわなきゃならん書類があるんだ」
「………それはわかったから、一人で食わせてくれ。雛じゃあるまいし、あんたにまで過保護にされたら気が滅入る」
「俺はもうちょっと過保護にしてやりてぇがな。ははは」

 呆れて答えると、ティバーンは俺の不機嫌を気にした様子もなく豪快に笑ってもそもそと食事を続ける俺を眺めた。
 日の光のような金褐色の視線が笑ったままで、なんとも落ち着かない。
 それがまるで、もう遠い昔の……って、それは俺の気分だけか。ベオクじゃあるまいし、ティバーンにとっては数十年やそこら、それほど昔のことじゃない。
 あの頃に俺を構っていた当時そのものの優しさで、正直いたたまれなかった。
 リュシオンやリアーネはずいぶん勘違いをしているが、あの頃の俺は少々、いや、まあ多少、……泣き虫だった。
 もちろん、ガキだったからだ。羽根も生えそろってない頃のことなんて持ち出されても、俺はよく覚えてないぞ。
 特に、リュシオンとはまだ本当に赤ん坊のころからの付き合いで、あの頃はリュシオンの方が見た目も少し年上で……。困ったことに、ティバーンと知り合ったのもそれぐらいだったらしい。
 ベオクで言うと、赤ん坊と十五、六程度の差だ。どうしようもないだろ。
 物心ついた頃には、ちょくちょく俺を抱えて笑っていた金褐色の目をした腕っ節が強くて優しい兄ちゃんが鴉に冷たいと有名なあの鷹だなんてこと、一人で飛べるようになるまで気にしたこともなかった。
 ティバーンって名前が呼びにくくて、舌足らずに呼ぶ俺にそれでもティバーンは怒らなくて、リュシオンももちろんティバーンが大好きで、あんな風に飛べたらいいのになんてな。よく話して……。
 やっと俺が飛べるようになった頃に冒険心を起こして助けられたりな。その時には俺が大泣きしてティバーンにかじりついて、リュシオンはリュシオンで目を真っ赤にしながら「ぼくは平気ですからね!」なんて意地張って、二人して抱えられたりもしたもんだ。
 なにが腹が立つって、今さらティバーンはあの頃のことを持ち出しては俺をガキ扱いしたりする。
 生きていてくれたラフィエルと昔話に花が咲いたようだし、ある程度は仕方がないんだろうが……。言われる俺の方はうんざりしてるんだから、いい加減察して欲しいもんだ。

「もう良いのか?」
「ああ。ごちそうさま」
「相変わらず食の細いことだぜ。まあ食ったならいい。おい! 下げろ」

 思い出したように時々俺の口元に果物やらパンやらを運ぶ手に逆らわずに食べ終えたところで、ティバーンに呼ばれた給仕が入ってきてワゴンを片付ける。
 最初の頃は鳥翼王と食事を共にする裏切り者を冷たい目で見ていた鷹の給仕も、今じゃ慣れたもんだ。
 時々俺に向けられる視線には特に尖ったものもなく、淡々と仕事をこなして出て行くだけだった。
 なんだかな。俺の待遇には鴉よりも鷹の連中の方が先に慣れたようで、それもちょっと頭が痛いかも知れない。

「さて、今日の書類は昨日までよりゃ楽だぜ。なにせ、おまえにうるさく言われて本格的な議事録が残るようになったからな」
「俺にうるさく言われなきゃ議事録さえろくになかった今までがおかしいんだ」
「そう言うな。新しい国になったんだ。必要なことはこれからどんどん取り入れさせるさ」

 必要なこと、ね。はン、どうせそれも俺が考えるんだろうな。そう思うと今度は眩暈までしそうだ。
 本当に、不思議なほどにティバーンの表情はひたすら明るい。
 ほんの一月前、国と国との間で交わされた血の誓約の解除するために必要だったキルヴァスの滅亡宣言をベグニオン皇帝であるサナキがしてくれて、俺の腕から忌々しい印が消えて……。なぜか俺本人よりもティバーンの方がよっぽどすっきりした顔をしていた。
 俺はというと……もちろん、うれしいんだけどな。有難いし、ほっとしたのも事実だが、正直、あまりに長い間腕にあったから未だにどこか信じられなくて、毎朝一度は確認してしまうんだが。
 夢の中であの印が赤い光を帯びて、ご主人様のお呼び出しかと陰鬱な気分になったことも一度や二度じゃない。
 それだけに正直、ティバーンがうらやましくなったりもするな。……我ながら情けないことだが。

「今日の昼だがな」
「え?」
「リュシオンとリアーネが一緒にどうかと言ってきたそうだぜ」
「あぁ、食事か?」
「そうだ。綺麗なところを見つけたから、久しぶりに外で食べようだとよ」
「……わかった」

 議事録を読んで必要な書類を起こしながら頷くと、ティバーンももうそれ以上無駄口は叩かずにベグニオンとクリミア向けに俺が仕上げておいた書状に視線を走らせる。
 こんな落ち着いた時間は嫌いじゃない。
 少し離れた訓練場から聞こえる威勢のいい鳥翼王の「目」の号令をかすかに聞きながら、しばらく俺は慣れた作業に没頭した。
 使いすぎた手が痛んでいつもより多少能率は下がったが、昨日までのがんばりでどうにか危機的状況を乗り切れたのは幸いだ。俺の執務室もあるのにどうしていちいち王の執務室で仕事をするのかと言いたいところではあるが、確認が早いのは利点だしな。
 最初は俺が弑逆でも企てるんじゃないのかとうるさかった一部の連中も、今はティバーンの指示が行き届いてすっかり静かになったし、邪魔が入らないだけ仕事もはかどった。
 弑逆もなにも、毒でも使わない限り俺がこの男を殺すのは大層骨の折れる大仕事だ。今やコイン一枚の価値もないそんなことを俺がするなんて心配しすぎもいいところなんだがね。
 こうして真面目にしていればやたら端正な男らしい横顔をちらりと見てそんなことを考えながら仕事を続けて、最後の一枚を書き上げたのはお昼を少し回ってからだった。

「二人が待ちかねてるだろうな。ネサラ、行くぞ」
「ちょっと待て。封をしてからだ。ええと、封印は……」
「急げよ」
「あのな、急がなくちゃならなくなったのは誰のせいだ」

 本当は新しい印章を使った方がいいんだが、生憎まだできていない。それまでは書状には三国の印を、封蝋には現在鳥翼王を名乗っているティバーンの鷹王の証であるフェニキスの印を押しているんだ。

「終わったな? よし、行くぜ」
「こ、こら待て!」
「待たん」

 言うが早いか、腕を組んで後ろでいらいらと待っていたティバーンに腰からすくわれ、大きな窓から出るのももどかしくそのまま羽ばたかれる。
 俺たちが飛ぶのは基本的に木の上だ。真昼の眩しい光に寝不足気味の目がついて行けなくて、そのまましばらく俺はティバーンの腕から抜け出せずに痛む目と頭を押さえて口の中で言葉にならない文句をぼやいた。

「おい、離せ」
「なんだ。疲れてんだろうから、寄りかかってりゃいいのに」
「民が見てるんだよ。離せ」

 そのまま少しの間は肩口に掴まってたんだが、目が慣れるとあちこちから鴉と鷹の視線が向けられているのに気がついて、俺は腹が立つほど逞しい腕を引き剥がした。
 俺だって元々は鴉の王だ。べつに華奢なわけじゃないが、こんなところを見るとこの男はいくら鷹と言っても同じ鳥翼族とは思えない。獅子の血でも混ざってるんじゃないかと思う。

「俺たちが仲良けりゃ、あいつらも安心するだろうによ」
「そんな視線じゃないから言ってるんだ」

 気のせいじゃなかったら、感じる視線に込められたものの中で一番多いのは心配、だ。
 鴉の場合は多分、俺がこの男に無理を強いられてないかってことだろうが、鷹の場合は……なんだろう。わからないな。

「あァ? なんだ、そりゃ」
「さてね。二人がいた。この話はまた今度だ」
「おい、ネサラ」

 不思議そうに首をかしげたティバーンの腕を払うと、俺は俺たちを見つけて満面の笑顔を浮かべたリュシオンとリアーネに軽く手を振った。

「ネサラ、ティバーン!」
「ネサラ、ここよ!」

 待ちきれないように伸ばされた二人の手は、平等になるようにそれぞれ片方ずつ取って丁度真ん中に舞い降りる。

「ネサラ、よかった」

 さすがにリュシオンはうれしそうに笑うだけだが、無邪気なリアーネはすぐに飛びついてくる。まるで羽のように軽い身体を抱き上げると、俺は雛のように頭をすりつけてくるリアーネに苦笑しながら言った。

「遅くなってすまない。でも、約束は守ったろう?」
「ネサラ、えらいッ」
「そ、そうか。えらいか」
「ウン、えらいッ」

 また、誰の言葉遣いを覚えたんだ、こいつは……。俺の気持ちを読んだか、苦笑したリュシオンが遅れて降りてきたティバーンに挨拶をして、いつまでも俺の腕から降りようとしないリアーネに降りるように促す。
 でも、今日は珍しく口答えだ。

「でもニイサマ、わたしもティバーンさまといっしょのことしたい」
「俺と同じこと? なにをだ?」
「ティバーンさま、ネサラ抱っこしたでしょ?」

 ど、どこから見てたんだ?

「あれは…違う。その、ティバーンが強引にだな」
「じゃあ、わたしもゴーイン。ホントはわたしがネサラ抱っこしてあげたいけど、できないから」

 ね? と若草色の目をきらきらさせながら言われて、俺は頭を抱えたくなった。
 リアーネは最後の白鷺の女だ。いつまでもこれじゃあいらない誤解が広がるだろうに。

「ネサラ、タイヘンだから、このままうたうといいかなって……ダメ? ゴメンね?」

 心は閉ざしたままでも、表情で俺が困ったのがわかったんだろう。しゅんとしたリアーネが自分から俺の腕を降りて、俺も甘いな。
 ふわふわと空気をはらむ柔らかい金髪頭を撫でて言ってやる。

「だめじゃないさ。でも、まだおまえに謡ってもらわなくちゃ辛いほどじゃない。行こう」
「ウン。でも、みんな言ってる……」
「ん?」

 ふわりと飛んだリアーネの後を追って俺も飛ぶと、後ろで食事はニアルチが用意したとティバーンに言っていたリュシオンまで飛んできた。

「ネサラ、かわいそうって……」
「リアーネ!」

 かわいそう? 俺が?
 意味がわからなくてリアーネの顔を見ると、ティバーンも同じだったようだな。同じようにリュシオンの後を追ってきて、一瞬丸くなったお互いの目が合った。

「おい、そりゃどういうことだ?」
「えっと…あのね」
「その話は後で。その、私から説明します」

 先に訊いたティバーンにリアーネが口を開く前に、なぜか頬を染めたリュシオンが答える。
 なんでここで赤くなるんだ?
 早く訊きたいところだが、リュシオンが後でって言ったからにはちゃんと説明するんだろうさ。
 仕方がない。そう思って二人に連れて行かれた先は、確かに綺麗な場所だった。
 鏡のような小さな泉と、その周囲を取り巻く色とりどりの花。深い森の中にぽっかりと見えたその場所は、幼い頃俺とリュシオンがいつも遊んだ場所によく似ていた。思わず懐かしくなるほどな。
 だが、そこでやけに湿っぽい目で俺を見て、続けてなにやら怒りの滲む目でティバーンに慇懃に挨拶したニアルチが置いていった弁当の大きなかごを開けた俺たちにリュシオンが教えてくれた内容は、かなり衝撃的なものだった。

「ティバーン、あなたがネサラを虐待しているという噂が流れています」
「………………は?」

 言い難そうにしばらく迷ってからリュシオンが発した一言に、分厚い肉と野菜をはさんだパンを掴んだティバーンがようやく応えたのは、たっぷり数瞬を置いてからだ。

「虐待? ……穏やかじゃないな」
「ウン。ネサラがいじめられてるって」

 眉をひそめた俺の言葉に野菜ばかりをはさんだパンを片手に頷いたのはリアーネだ。

「あ…気になさっていたようなのでつい言ってしまいましたが、食べてからの方が良いかも知れませんね」
「いや、続けてくれ。気になる」

 ティバーンの表情も険しい。そりゃそうだ。あらぬ疑い…とはここ最近の俺の仕事ぶりを思えば言い切れないかも知れないが、そこまで言われたら面白くないだろう。
 取りかけてたチーズと野菜をはさんだパンを置いた俺に向けられたリュシオンの視線に頷くと、リュシオンは少し困ったように一呼吸を置いてお茶を淹れ始める。
 ……言い難い内容のようだな。これは嘘をつけないリュシオンがなるべく時間を稼ぎたい時、ごまかしたい時の癖だ。

「ネサラ、あーん」
「え?」
「食べなくちゃ、ダメよ」
「あ、ああ。あとでいいから」
「ネサラのあとって、ながいでしょ。ダメ」

 ぷう、と花のような色の頬を膨らませたリアーネがさっき俺が手放したパンをちぎって口に入れようとしてくるが、さすがに食べる気にはなれない。

「鴉たちか?」
「いえ…鴉もですが、鷹の民からもそんな声が聞こえています」

 不安になって呟くように訊いた俺に返ったリュシオンの答えに、今度こそ俺は目を剥いた。
 虐待? 虐待って……俺が?
 俺が眠れないほど働いてるってことは、ティバーンだって忙しいってことなんだがな。
 鴉はまだわかる。でも鷹なら、王をあんなに働かせて俺のがんばりが足りないだとか、鴉の分際で王の私室に寝泊りするなんて何様だとかいう内容で噂されるところなんじゃないのか?
 わけがわからなくて落ちてくる前髪を撫で付けていると、そんな俺の袖がくいと引かれた。リアーネだ。

「ネサラ、食べて。またやせちゃう」

 そう言って見上げてくる若草色の大きな目が今にも潤みそうで、俺は慌ててそんなリアーネに首を振った。

「俺はそんなに簡単に痩せない。話が終わったら食べるさ」
「ちがう。ネサラ、やせるのすぐよ。まえも、すごくやせてた」
「リアーネ?」
「ネサラ、いっぱいいたくて、泣いてたでしょ? ネサラは涙をわすれちゃったから、わからないひといっぱい。でも、わたし、しってる。あのとき、ネサラやせた。会うまえにもやせて、会ったあともやせた」

 まだまだ拙いけど、それでもずいぶん滑らかになった現代語がリアーネの口から滑り出て、目をそらした俺より先にティバーンの視線が俺を捕まえる。
 あぁ、くそ。言いたいことはわかってるさ。今さらなんだから、どうしようもないってのに。

「その話はもういい」
「でも、ネサラいたかったもの。ネサラはわたしに見えなくするから、もしまたネサラがいたいなら、わたし、ティバーンさまをおこる」
「お、おい。待て、リアーネ! なんで俺が怒られるんだ!?」
「ネサラいじめるひと、わたしゆるさないの」

 ようやく口の中のものを飲み込んで焦ったティバーンに、リアーネは鷺らしからぬ強い視線を向けて胸を張る。
 いつもなら笑うところだ。笑うところだが、リュシオンは笑えない顔で俺とティバーンを見ていて、俺は困ってどうしたものか迷った。
 参ったな。どうも話が見えない。
 だが、仕方なくリュシオンをもう少しきつく問い詰めようとしたところで、また人が増えた。
 近づいてくるのは、優しい森の気配と、どこかティバーンに似た強い獣の気配だ。

「遅くなりましたね」
「すまんな。こちらから仲間に入れてくれと頼んだというのに」

 背の低い柔らかな茂みをかき分けて現れたのは、リュシオンとリアーネの兄であるラフィエルと狼女王、ニケだった。

「兄上…!」
「ニケさま」

 ぱっと二人の顔が明るくなる。
 リュシオンは純粋に助け舟だと思ったんだろうが、リアーネはこれでまた俺に食えと強制してくれる助っ人が来てくれたと駆け寄って俺を指しながらあれこれ言っていて、本気で頭が痛くなった。
 なんだかな。かなり厄介な話のような気がするのに、リアーネが絡むとどこか間が抜けたようになるのは、ある意味有難くはあるんだが。

「どうやら、リュシオンが説明に苦慮しているようだな」

 穏やかな笑顔で弟妹を宥めながら座ったラフィエルの代わりに、女性にしては長身で逞しい狼女王がにやりと笑って俺を見た。
 ……どうやら、この二人も話を知っているらしいな。はン、知らぬは本人ばかりなりか。

「俺はティバーンに虐待されてるらしいな」
「噂でしょう?」
「さてね。確かに仕事は多いが」

 はんなりと小首をかしげて笑ったラフィエルに片眉を上げて答えると、心当たりがあるらしいティバーンが「だから、それは悪かったって」と情けなく言いながら冷めたお茶を飲み干した。

「最近、自分の部屋に帰っていないでしょう?」
「俺か? ……あぁ、まあ確かにここ二週間ばかりはそうだったな」
「食事もティバーンの部屋か、鳥翼王の執務室で摂っていましたね?」
「そりゃおまえ、こいつの食が細いからだな、」
「俺は普通だ。あんたたちの食う量が多いんだよ」

 穏やかなラフィエルの問いかけに慌てて言い返すティバーンの上から被せて答えると、ティバーンはしつこく「もっと食えよ!」と逆ギレしやがる。
 まったく、基礎体力の違う鷹と鴉が同じわけあるか。第一お互いの体格差を考えりゃわかるだろうに。
 そんな俺たちのやりとりが面白かったんだろう。ひとしきり狼女王と顔を見合わせて笑うと、ラフィエルが変わらない笑顔で言ったのだった。

「だから、そのような噂が流れたのです。ネサラがとても疲れていて、それは日増しに酷くなっていて、それは夜毎、……いいえ、夜も昼もなく、君に手酷く扱われているからではないかと」
「ちょ、こらラフィエル! てめぇ、それが笑顔で言う台詞かッ!」
「あぁ、まあ外れてはいないな。昨夜もそりゃあ遅くまで付き合わされて、いい加減痛くて壊れるかと思…なんだ?」

 昨夜は特に酷かった。俺たちは夜はあまり見えないからな。酷使し続けた手は痛いし、ランプの明かりを頼りに書き物をし続けたせいで、目を閉じても羊皮紙の黄ばんだ白さがちらちらして困ったほどだ。
 そう言おうとしたところでいきなりでかくて固い手のひらに顔を掴まれて音を立てそうな勢いでひねられると、そこにはか弱いこぶしを握り、柳眉を逆立ててティバーンをにらむリアーネがいた。

「ネサラ、意味が違うっていうか、ああ、リアーネはわかってねえか。とにかく、違うってことをとりなしてくれ」
「なにが違うのかはわからんが、リアーネ、俺は怒ってない」
「わたしは、おこります!」
「そうか。でも俺は怒ってないから、おまえも怒るな」
「おこります!」

 参ったな。こりゃ無理だ。

「ティバーン、悪いな。無理そうだ」
「諦めが早ぇだろ!」
「我慢し続けた反動か、最近どうも根気がなくてな」
「なさ過ぎる!」

 そんなことを言われても、リアーネに誰が逆らえるって言うんだ?
 諦めの悪いティバーンの腕を掴んで外すと、……なんだ? 尖った耳の先まで赤くしたティバーンが頭を抱えてなにやら唸っていた。

「おい、具合でも悪いのか?」
「……悪くもなるだろ」
「なんでだ? べつに、あんたが俺にちょっと無理をさせたからってそこまで落ち込むこたないだろ。なにせ俺は償いをしなきゃならん立場だ」
「だから、そんな言い方をするからこんな誤解が広がったんだろうがッ!!」
「誤解?」

 噛み付くように怒鳴られたところで、ティバーンから出た強い感情が痛かったんだな。少し離れかけていたリュシオンに意味を訊こうと視線を向けると、リュシオンの方も赤くなってちょっと困ったような笑顔で首を振った。
 リアーネは俺を守りたいように腕を絡めてくるだけだし、意味がわからん。

「おい、二人ともいい加減笑ってないで俺にもわかるように説明してくれないか」

 こんな場合だってのにくすくす笑っていられるラフィエルは、狼女王との付き合いでやっぱりだいぶ元の鷺の性質よりもしたたかになったような気がするぞ。

「まだわかりませんでしたか。あなたがティバーンの伽をさせられていると、そう誤解を受けているのですよ」
「は? 伽?」
「そうだ。おまえが夜も昼もなく、女のように鷹王…ではないな。鳥翼王に虐げられているのだとな」

 女のようにって……。

「!」
「ネサラ」

 さすがに、今度こそ意味がわかった。
 さも面白そうな笑顔の狼女王に言われて、血の気が上ったのか、引いたのか。片膝を立ててただぼんやりと座っていた脚で立ち上がると、焦ったリアーネが俺の顔を覗き込んできて、俺は慌てて視線をそらした。
 たぶんリアーネには本当の意味は伝わっていない。伝わっていないが、そんなことをこんな純粋な目で心配されていたたまれなかったからだ。
 確かにラグズは、特に鳥翼族はベオクよりも同性間のそういったことについて忌避感は乏しい。男の方が女よりも発情期の回数が多かったり長かったりするのが一般的だし、そんな時は同性間で慰めあったり、または子作りは別として同性間でつがいになったりすることも多いのは事実だ。
 だけどそれは切羽詰っていたり、つがいだからであってだな、普通ならそんなこと絶対にない。
 誰だ、そんな馬鹿なことを最初に考えたヤツは!?

「ネサラ、ちがうの。みんな、しんぱい」

 ちがうって、なにがだ…!?
 フェニキスを裏切って、背を向けた。その結果、フェニキスまで焦土にされた。
 それを知った時でさえ凍りついたように出なかった涙がこんな場面で出るんじゃないかと思って口元を押さえたままずいぶん必死なリアーネを見つめると、リアーネはたどたどしく説明してくれた。

「ネサラ、ティバーンさまにはイヤって言えない。だから、もしかしてが、たくさんになったの」

 だから、その中からなんでよりにもよってそんな…!

「だってティバーンさま、ネサラをはなさないから」
「俺かよッ!?」
「ネサラは、きれいだから」
「きれいってなんだ……」

 ようやく立ち直って素っ頓狂な声を上げたティバーンに重ねてそんなことを言うものだから、俺の口からまで力ない呟きが転がり落ちた。

「きれいだからって。ネサラ、かわいそう。泣かないで」
「泣いてない」
「泣いちゃダメよ」

 そんなに必死にいい子いい子されたら、また誤解される。
 そうは思ったがとてもティバーンを振り向けなくてため息をつくと、楽しそうに笑っていた狼女王がまたいらないことを付け加えた。

「屈強でいかにも男らしい鷹の民から見れば、鴉の民は鷺ほどではないにしても華奢で繊細。加えてそなたには女のようではないにしても、どことなく色気がある。特に鷹の民はけだるげなそなたの色香に惑わされて良からぬ想像をしたのだろうな」
「ネサラッ」

 あまりな言われように起こった眩暈をすぐさま感知したリアーネが俺を支えて、俺は不甲斐なくもなにも言い返せずにただ頭を抱えた。
 色気もなにも……今目の前に最初に言い出したヤツがいたなら、疾風の刃で思いっきり刻んでやりたいぐらいだ。
 なにより、やっとわかった。ここ最近、ニアルチと、特にシーカーがやたらに俺を心配していた理由が。
 まさか、そんな……俺がそんなことをさせられてると思われていたのか? ティバーンに無理やり?
 あぁ、そう言えば今朝は辛いとか、少し眠らせてくれりゃ楽なのにとか、あいつは強引過ぎるとか、俺も何度か愚痴を言った。
 その度にあいつは俺を泣きそうな目で見て……。

「ネサラ、泣かないでッ」

 もちろん、泣いてない。でも、もう同じことを言い返す気力もなくなってかっかと熱い顔を覆うと、俺はへなへなとしゃがみこむこともできずに本気で消えたくなった。
 女神のいるあの塔での戦いが終わって、いよいよ償いの時が来たと思った時はまだなんともなかった。これで楽になれる。そんな狡い考えさえあった。
 でも、結局赦されることになって、ティバーンに生きろと言われた時でさえ、ここまで自分を恥じたことはもしかしたらないかも知れない。
 いや、恥じる内容の性質がまったく違うからだが、それでもだ……!

「とにかく、そりゃあ参ったが誤解は早く解かなけりゃな。道理で最近鴉の連中が悲壮なツラで俺を見ていたわけだ。あの分じゃあ、ニアルチだって誤解してるだろう」

 どうやら先に立ち直ったらしいティバーンが落ち着いた声で苦笑しながら言うが、俺には返事をする余裕もない。
 それどころか、「ネサラ?」と心配そうに肩を掴まれて、我ながら滑稽なほど焦って大きな手から逃げた。

「畜生、あんたのせいだぞ…!」
「まあそりゃあ、半分はそうだろうが、寝る時に面倒臭がって俺の寝台にもぐりこむのはいつもてめぇの方だろうが」
「俺が部屋に戻るのも面倒になるほどあんたがコキ使うからだろうがッ」
「早く寝ろって俺が言った時でも、もうちょっとで一区切りだからってしつこかったのはそっちだぜ?」
「俺は区切りの良いところじゃないとやめられない性格なんだ!」
「ああ、それはおまえの良い所だな」

 思わず大きくなった声に怒らずに笑ったティバーンが腕を伸ばして俺の肩に回す。それから勢いよく分厚い胸元に引き寄せてあやすみたいに頭を撫でられて、今度こそ俺の心臓が弾けた。

「ネサラ? なんだよ?」

 むき出しの胸元に触れた自分の頬が熱過ぎる。
 突き飛ばした勢いで大きく後ろに羽ばたくと、俺は意識していつもの静かな声を作りながら言った。

「ここ二週間は半分忘れていたが、俺は外交官だ。クリミアに書状を届けに行く」
「ネサラ、ごはん!」
「おい、今からか!?」
「当分帰らない。その間に誤解を解いておけ。俺のためじゃない。仮にも鳥翼王ともあろう者がこんな裏切り者にそんな真似をするような間抜けだなんて噂されたら、それこそ鳥翼族全体の恥だ」
「ネサラ、そんなに慌てなくても…!」

 ことさら低い声で言うと、リアーネとティバーンに続いてリュシオンまで心配そうに俺を引き止める。
 でも、こんなことを知って平然とセリノスをうろつけるほど俺だって馬鹿じゃない。
 いらんぐらい分厚かった面の皮も、我ながら感心するぐらい丈夫だった神経も、腕から消えた血の誓約の印といっしょにすっかり剥がれ落ちたように、てんで我慢が効かなかった。

「ティバーン! 金輪際、俺はあんたの部屋で寝たりしないッ!」

 最後にきつく言い捨てると、俺は一息に飛んで鳥翼王の執務室を目指した。
 ああ畜生、リアーネがあんなことを言うから、情けなさ過ぎて本当に泣いちまいそうだ。
 滲みかける視界に慌てて何回も頭を振って一目散に飛ぶ間にもそこここから飛んできた視線が痛くて、とても顔を上げられなかった。
 まったく、我ながら不甲斐ない。処刑さえされないほどの重い罪なのだから、償おうと思った。
 それこそ、どんなことをしてでもだ。
 なのに、こんなことで居たたまれなくなっている自分が本当に許せない。
 一部の鷹の連中の根深い憎悪は知ってる。それは、正しい。
 痛いほどそう思いながら、俺は広い執務机の上に重ねてある書類から諸外国へ宛てたものを抜き出して厳重に油紙で包み、腰に巻く鞄に放り込んでそのベルトを閉めるのもそこそこにもう一度大きな窓から飛び出したのだった。




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